格闘技に興味がある人なら、誰もが大山倍達の名を聞いたことがあるでしょう。
大山倍達は国際空手道連盟極真会館の創始者で、ゴッドハンドの異名を持つ伝説の空手家。
特に「牛殺し」のエピソードは、その超人的な強さを象徴する出来事として現在でも語り継がれています。
こんな疑問にお答えします
- 大山倍達の人物像について知りたい
- 牛殺しなど伝説のエピソードを知りたい
- 大山倍達他界後の極真会館について知りたい
記事の信頼性
この記事を書いている僕は、極真空手歴・筋トレ歴ともに20年以上。
15歳で極真会館に入門し、現在も日々空手の稽古に打ち込んでいる現役の空手家です。
僕自身、大山倍達総裁にお会いしたことはありませんが、やはりその偉大さは語り尽くせません。
そこで今回の記事では、牛殺し大山倍達の波乱万丈の人生や伝説のエピソードについて徹底解説していきます!
【ゴッドハンド】大山倍達とはどんな空手家?
ゴッドハンドと呼ばれた大山倍達とは、いったいどんな空手家だったのでしょうか?
ここでは、生い立ちから過去の実績までを簡単にまとめました。
1-1 生い立ちと経歴
大山倍達は、1923年6月4日生まれで朝鮮半島出身の空手家。段位は十段。
韓国名は崔 永宜(チェ・ヨンイ)。
満州国と朝鮮半島で育ちましたが、その後日本に渡り15歳で山梨少年航空学校に入学しています。
幼少期から拳法を学んでおり、15歳のときに松濤館流の事実上の開祖である船越義珍氏の門下生になりました。
これが空手との出会いになります。
空手の修行を続けるかたわら拓殖大学や早稲田大学でも学問を学び、1947年に戦後はじめて開催された全日本空手道選手権大会で優勝。
その後も自身の空手を追求するために山籠り修行や猛牛との死闘、全米各地をまわって空手の強さを証明しました。
そして1954年には、東京の目白に後の極真会館になる大山道場の看板を出しています。
実は人生の大半を韓国籍として過ごしており、日本国籍を取得して大山倍達の名を本名として登録できたのは1968年でした。(それまでは通称名であった)
1-2 極真会館を設立
大山道場を設立後はどんどん規模が大きくなっていき、1964年に国際空手道連盟極真会館を設立。
数多くの優秀な指導者や強豪選手を育成し、今では世界各国に指導員を輩出しています。
当時、輩出された指導員として有名なのは、元世界最高顧問だったアメリカ・ニューヨーク支部の大山茂師範や、ブラジル支部の磯部清次師範が挙げられるでしょう。
直接打撃制(フルコンタクト)を提唱していた極真空手は、当時は寸止めが一般的だったため多くの避難を浴びました。
しかし、大山倍達は修行に励む一方でメディア戦略にも力を注いだため、極真会館は世界各国に広がる空手団体となったんです。
1990年代の最盛期では世界123ヵ国に公認支部が1000以上、会員数は1,200万人もの規模まで拡大しました。
1-3 空手バカ一代
極真空手が人気になった要因のひとつとして、劇画「空手バカ一代」の影響は大きかったでしょう。
空手バカ一代は、大山倍達の半生を描いて大ヒットした漫画作品。
当時、多くの若者が大山倍達の波乱万丈な生き様や強さに憧れて、極真会館の門を叩いたといわれています。
特に冒頭での「これは事実談であり、この男は実在する〜」と述べるフレーズは、若者たちを惹きつけたに違いありません。
最近だとこの漫画を読んだことがない方もいるので、ぜひ一度読んで大山倍達の魅力を再認識してみるのも良いでしょう。
大山倍達の伝説のエピソード
大山倍達にはたくさんの伝説が語り継がれています。
中でも特に有名なエピソードをまとめたので、順番に見ていきましょう。
2-1 18ヶ月の山籠り修行
終戦後間もない1948年4月、自身の空手をさらに追求するために千葉県房総半島の清澄山にて山籠り修行を行っています。
なんとその期間は18ヶ月。
自らの精神と肉体を極限まで追いつめ、鍛錬を繰り返したといわれています。
この場所は極真空手発祥の地として記念碑が建てられており、山籠り修行の記録やその後の修行について記されているとのこと。
現在でも多くの極真空手家たちが、世界大会前に空手母国日本の必勝を誓うために訪れる場所として知られているんです。
2-2 アメリカでの真剣勝負
1952年、大山倍達はプロ柔道家の遠藤幸吉四段とともにアメリカに渡り、全米各地で空手のデモンストレーションを行いました。
そこでは空手の魅力を広める一方で、プロレスラーなどと真剣勝負を繰り広げているんです。
結果は7戦全勝。
巨漢の選手を相手に見事勝利をおさめたことで、アメリカ全土に圧倒的な強さを証明しました。
また、極真会館設立後も世界各国に足を運び、世界各国に極真空手を広めています。
2-3 猛牛との死闘
大山倍達の伝説の中でも、もっとも有名なエピソードのひとつが猛牛との死闘です。
1954年11月に千葉県館山市の八幡海岸で行われたこの対決は映画のクライマックスシーンとして撮影され、大山倍達の強さを世に知らしめる大きな出来事となりました。
なんと、重さ450kgの猛牛を相手に素手で立ち向かったんです。
想像を絶する迫力と緊迫感につつまれる中、猛牛を圧倒して角をへし折り見事勝利をおさめました。
ちなみにこれまで、大山倍達は合計47頭の牛を倒し、そのうち4頭は即死だったそうです。
実際の対決のワンシーンはこちら↓↓
2-4 10円硬貨曲げ
大山倍達は驚異的な握力を誇っていたといわれており、中でも10円硬貨曲げのエピソードは圧巻です。
なんと、親指と人差し指、中指の3本の指の腹の部分で10円玉を完全に曲げることができたとのこと。
この伝説については、一撃のドラゴン成嶋竜の父親である成嶋弘毅が目の前で実際に見たと証言しています。
成嶋弘毅いわく、「10円玉を曲げたときに極限の力を発揮する副作用でじん麻疹が出る」といっていました。
とにかく信じられないような握力の強さですね。
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2-5 ビール瓶切り
ビール瓶切りの離れ技は、映像にも残されているのでご存知の方もいるのではないでしょうか?
大山倍達は、なんと手刀でビール瓶を水平に切ることができたんです。
実際の映像はこちら↓↓
手刀の強靭さと圧倒的なスピードが組み合わさってこそ実現できる神技だといえるでしょう。
大山倍達他界後の極真会館
1994年4月26日、大山倍達は東京都中央区の聖路加国際病院で急逝。
死因は肺がんによる呼吸不全。享年70歳でした。
カリスマ的な存在である総裁の逝去により極真会館はじめ格闘技界が悲しみつつまれる一方で、誰が後継者になるのかというのが大きな問題となっています。
お亡くなりになる直前4月19日に立会証人のもとで遺言書が作成され、「松井章圭を後継者にする」と記されていました。
しかし、公証役人が不在かつ妻の智弥子夫人にも知らされていなかったことから、確認裁判へと発展…
裁判によると、作成にあたって組織上の利害関係者がいたことなどの理由で、「遺言書は無効である」との判決が下っています。
これらが原因で、極真会館の分裂騒動がはじまりました。
現在ではさらに分裂が進んでいますが、大山倍達の教えは継承しつつそれぞれの派閥団体が独自の路線で発展を続けています。
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まとめ
いかがだったでしょうか?
今回の記事では、牛殺し大山倍達の波乱万丈の人生や伝説のエピソードについて徹底解説しました。
大山倍達総裁は、波乱万丈の人生を歩みながらも自分自身を追い込み、世界各国に極真を広めたまさに伝説の空手家です。
カリスマだった総裁の他界後は極真会館にとってさまざまな試練がありましたが、現在でもそれぞれの団体が日々前進しています。
大山倍達総裁が残した精神は、これからも多くの空手家たちの心に生き続けていくでしょう。